その参:技術者の信念
技術者のかたがたがとまどい、時には、憤りを覚えるように、
特許の世界の考え方は、多少、特殊である。
「何故これが特許になるんだ?(or ならないんだ?)」
知財関係の仕事をする者としては、
技術者の熱意を汲み取りつつ、
特許制度に則ればそうならざるを得ない・・・ということを
説明する訳であるが、
時として、「特許の世界の常識」と思いこみ、
打開策を見逃す危険性もある。
こんなことがあった。
ある外国出願をした時のこと。
同じ物質が載っている
ケミ・アブ(chemical abstract)という雑誌が、
引例として引かれてしまったのだ。
「公知刊行物」に記載されてしまった物質には、
もはや新規性は無い。
少なくとも、「物質特許」は、とることができない。
しかし、研究者は納得できない様子。
(詳しい経緯は忘れてしまったが)
問題となる論文(英語版)の記載全体の流れから考えて、
どうしても、その物質の記載は、誤りとしか思えなかったようだ。
これは、やはりその技術に造形が深く、
自分自身が苦労した結果、
その物質に漸く到達し得たという自信があるからこそ
感じられた直感であろう。
しかし、知財担当者からすると、
「そう思っていても、同じ研究している人は、結構いるものなんですよ。」
「技術は、均衡していますから」
「仮に、記載間違いであったとしても、
公知刊行物に載ってしまったら、新規性はありませんから」
などと、一蹴してしまいがちである。
現地代理人にも、
同様に、無理だと言われた。
しかし、研究者は、納得できず、
その文献の日本語版を取り寄せ、
物質名が“誤訳”であることを突き止めたのである。
それでも私自身、法律の文言に縛られ、
絶対無理だろう・・・と思っていた。
しかし、研究者の熱心さに打たれ、
次第にこう考えるようになった。
「誤訳」として不運にも掲載されたことによって、
本当に素晴らしいものが、拒絶されてしまうなんて、
やはり間違っているのではないか?“
現地代理人による、審査官への電話や面接インタビューの結果、
めでたく特許になった。
技術者の信念に従って、本当に良かったと思う。
・・・・が同時に、
決して忘れてはならない、
そしてちょっぴり苦い経験ともなった。